私 木宮一洋は、宮崎県 一心鮨 光洋の長男として生まれました。
父は私が他店の板場に入る事を良しとせず、
いわゆる食べ歩く事だけが私にとっての修行の場となりました。
そんな中、今も私が私淑して止まない様々な方々との出会いがありました。
最初の大きな出会いはおよそ17年前、すきやばし次郎さんを訪れた時でした。
カウンターで30分、握り18貫のコース。お代は25,000円と覚えています。
当時の一心鮨はおよそ30種の食材を毎日用意して、
2時間お客様に楽しんでいただき、お代は5,000円〜8,000円の時代。
父から任されたお店はそれなりに順調でしたが、
高級回転寿司の脅威が静かに押し寄せている時代でもありました。
握りを極めることで、鮨はこれほどの高付加価値を創り出せるのか?という衝撃です。
私は宮崎に戻り、お店を「さしすせそ」から見直すことを始めました。
当然父や兄弟、出入りの業者たちとの軋轢が生まれます。
特に問題となったのは鮨米とのりについてでした。
長く出入りしていただいていた米問屋と諍いになりながら、何度も会話と続けました。
最終的に「ヒノヒカリ」という宮崎のテロワールを最も表現することのできる米と出会い、
ようやくお店へ導入することができました。
中心に柔さと旨みがあり、外側に一定の硬さを持つ鮨米にふさわしいお米でした。
当時を振り返ると私は、
東京四谷のある職人の方の影響を受けて、2種類の鮨飯(白酢と赤酢)を用意していました。
それでも十分ではないと感じた私はもう一つ「ロゼ」も用意し、
3種の酢飯使い分けていた事を思い出します。
その様子は、いつか寿司の専門誌に紹介される事になりました。
私は当時、宮崎の仲卸の津本さんと神経締や熟成魚などを手掛け始めたこともあり、
雑誌の取材を幾度か受けていた時代でもありました。
丁度私が次郎さんを訪れてから、3年ほど経過した頃の話です。
そしてこの1-2年後、私の握りに大きな変化をもたらす出会いを迎えることになります。
そのお話は、またいずれさせていただきたいと思います。
拙い文章、お読みいただきましてありがとうございます。
鮨料理 一高店主 木宮一洋